大切な何か知った時、はじめて本当の価値に気付ける。

僕はひどく後悔をしていた。
高田馬場駅へ向かう道中、自分の行った散財っぷりに落胆と後悔の繰り返しをしていた。

胸の中心が痛いとは少し違うような、まるで胸の奥の方でドロっとした液体ような何が胸から下に掛けて垂れてしまうような深い後悔だった。

 

物の価値というのは人が決めて、それを周囲の人間も同じ認識を持つ事で成立するものだが、文化や風習、国が違えばその価値というものも変わってしまうものである。世間では浪費家はあまりよろしくないとされて、節約術などがテレビや雑誌などで紹介されているが、節約するという事は他の物を買う為に不要な所を洗い出して無駄を無くすということだ。結局は物を買いたいが為に節約しなければならないというだけだ。それほど物を買う事は良しとされている事になる。よく物を買って満足をする人にとって、買い物とは快楽の一種なのだろう。だがこうして買い物をして後悔をしてしまうという事は僕にとって何か物を買うというのは快楽では無いということだ。

 

僕は基本的には正しいか正しくないかという選択肢の中で行動を決める。損得勘定にかなり近いがそれとは少し違う。自分が損をしてもその行動自体が正しければ僕の中でも問題無しと判断される。例を挙げれば、電車で年配の方に席を譲る行為がそれにあたる。僕自身は損しかしていないがその行為自体は正しい。物を買う時にも同じようにそれを買う理由が僕にあるのかどうかで判断する。本当に必要なのか、他の物で代用は利かないのか、それを買うことで僕は何を得るのか、それがどのくらいの期間使えるものなのか。そういった事を考えて、それでも必要となった場合のみ買う。だから衝動買いという経験が限りなく少ない。大体の場合、1週間考えることが主だからだ。だからこそ今回、無駄遣いしてしまったという後悔は計り知れない。

どこからが無駄遣いで、どこまでが許容範囲なのか、それは人によって大分変わるだろう。ラーメンは今やどこに行っても700円近く取られる、ランチでもレストランに入れば1000円くらいは普通だ。ホテルのレストランでディナーだったらどんなに安くとも8000円は掛かるだろう。物には相場というものがあり、大体こんなものだという金額が決まっているものだ。それを理解して承知の上で対価を支払っているのだから、別に文句があるわけでは無いのだが。それでも本当に自分にとって必要なものだったのか、それを熟考しないで買ってしまったが為に、買った直後に後悔してしまうとは情けない限りである。

 

ただ今回の無駄遣いで得たものもある。勿論それは商品もであるが、僕は物を買う事で快楽を得られないというのは新しい発見であった。そもそも物を買う事が極端に少ない方ではあるが、今まで安い物では後悔どころか何も感じなかった、しかしそれなりの金額になるとしっかり後悔するのだと自分の新しい一面を知った。もともと物欲が少ない方で、お金を掛けるならばスキルに掛ける事が多かった。勉強だったり、習い事、旅行、美術館、映画館・・・対価を支払って経験に代わるものにお金を掛けてきた。それでも当然、服や食事、必需品な物に対しては買うわけだが、率先して買うという事は避けてきた。過去に無駄遣いをして来なかったわけでも無いが、何年ぶり、いやもしかしたら10年は無駄遣いらしき事はしていなかったかもしれない。久しぶりの無駄遣いで今回の自分の愚かな行為に対し反省した。そして理解した。僕にとってお金を使う事で得られる快楽は知識や経験を身に付けた時なのだと、僕はスキルを磨くことの方が好む傾向にあるのだろう。ここで安易に「好き」という言葉を使わなかったのは、本当に「好き」なのかすぐに判断するのは早計だと思ったからだ。そうか、友達が少ない理由も少し分かった気がする。