他力本願では何も解決しないこと理解した方が今よりずっとマシになるものだよ

日頃、街へ出掛けたりすると駅前で消費税反対と声を荒げている人を目にする。それ以外にも仕事柄、お客さんと接する事が多いのだが、怒って電話を掛けてくる人も居たりする。その度に思うのだが、なぜそう怒れるものなのかと常日頃から疑問に思っている。仮に怒って事態が好転するならそれは正しいと言えるが、大抵の場合怒っても事態は何も変わらない事が多い。それなのに怒りをぶつける事に何の意味があるのか、その思考回路が理解出来ない。怒るという事はそれが嫌という事は理解出来るが、それが嫌であるのなら問題解決に勤しむのが正しい行動と言えるのでは無いだろうか。まあ百歩譲って政治家に対して怒りをぶつけるのは分かる。誰しもが政治家になれるわけでも無いから、任せている人に対してしっかりしろと言いたくなるのだろう。だがそれは結局無意味であることを理解していないのか、理解出来るほど正常な状態で無いのか、理解しているけど理解したくないだけなのか。結局のところ僕は分からない。まあ興味があるわけでも無いのだが。

大切な何か知った時、はじめて本当の価値に気付ける。

僕はひどく後悔をしていた。
高田馬場駅へ向かう道中、自分の行った散財っぷりに落胆と後悔の繰り返しをしていた。

胸の中心が痛いとは少し違うような、まるで胸の奥の方でドロっとした液体ような何が胸から下に掛けて垂れてしまうような深い後悔だった。

 

物の価値というのは人が決めて、それを周囲の人間も同じ認識を持つ事で成立するものだが、文化や風習、国が違えばその価値というものも変わってしまうものである。世間では浪費家はあまりよろしくないとされて、節約術などがテレビや雑誌などで紹介されているが、節約するという事は他の物を買う為に不要な所を洗い出して無駄を無くすということだ。結局は物を買いたいが為に節約しなければならないというだけだ。それほど物を買う事は良しとされている事になる。よく物を買って満足をする人にとって、買い物とは快楽の一種なのだろう。だがこうして買い物をして後悔をしてしまうという事は僕にとって何か物を買うというのは快楽では無いということだ。

 

僕は基本的には正しいか正しくないかという選択肢の中で行動を決める。損得勘定にかなり近いがそれとは少し違う。自分が損をしてもその行動自体が正しければ僕の中でも問題無しと判断される。例を挙げれば、電車で年配の方に席を譲る行為がそれにあたる。僕自身は損しかしていないがその行為自体は正しい。物を買う時にも同じようにそれを買う理由が僕にあるのかどうかで判断する。本当に必要なのか、他の物で代用は利かないのか、それを買うことで僕は何を得るのか、それがどのくらいの期間使えるものなのか。そういった事を考えて、それでも必要となった場合のみ買う。だから衝動買いという経験が限りなく少ない。大体の場合、1週間考えることが主だからだ。だからこそ今回、無駄遣いしてしまったという後悔は計り知れない。

どこからが無駄遣いで、どこまでが許容範囲なのか、それは人によって大分変わるだろう。ラーメンは今やどこに行っても700円近く取られる、ランチでもレストランに入れば1000円くらいは普通だ。ホテルのレストランでディナーだったらどんなに安くとも8000円は掛かるだろう。物には相場というものがあり、大体こんなものだという金額が決まっているものだ。それを理解して承知の上で対価を支払っているのだから、別に文句があるわけでは無いのだが。それでも本当に自分にとって必要なものだったのか、それを熟考しないで買ってしまったが為に、買った直後に後悔してしまうとは情けない限りである。

 

ただ今回の無駄遣いで得たものもある。勿論それは商品もであるが、僕は物を買う事で快楽を得られないというのは新しい発見であった。そもそも物を買う事が極端に少ない方ではあるが、今まで安い物では後悔どころか何も感じなかった、しかしそれなりの金額になるとしっかり後悔するのだと自分の新しい一面を知った。もともと物欲が少ない方で、お金を掛けるならばスキルに掛ける事が多かった。勉強だったり、習い事、旅行、美術館、映画館・・・対価を支払って経験に代わるものにお金を掛けてきた。それでも当然、服や食事、必需品な物に対しては買うわけだが、率先して買うという事は避けてきた。過去に無駄遣いをして来なかったわけでも無いが、何年ぶり、いやもしかしたら10年は無駄遣いらしき事はしていなかったかもしれない。久しぶりの無駄遣いで今回の自分の愚かな行為に対し反省した。そして理解した。僕にとってお金を使う事で得られる快楽は知識や経験を身に付けた時なのだと、僕はスキルを磨くことの方が好む傾向にあるのだろう。ここで安易に「好き」という言葉を使わなかったのは、本当に「好き」なのかすぐに判断するのは早計だと思ったからだ。そうか、友達が少ない理由も少し分かった気がする。

何のために生きるのか、そう問われた男の話

「お前、アイツと別れたら絶対許さないからな!」「そうよ、分かってるの?!」
青春ドラマで聞いたことがあるようなセリフをいきなり耳にした。

「まあ分かってるけど」

男と女と責められている男の3人組が人目をはばからず大きな声で話している。

僕はというと運の悪いことに、たまたまその隣にいた。

「---駆け込み乗車はお止めください。」

オレンジ色の電車のドアがアナウンスのあとに閉まった。

「もしね、彼女が浮気していたらあなたどうするの?」

女が尋ねる

「そりゃ別れるさ、向こうに非があるんだから」

「そんな事したら、お前の事ぶっ飛ばすからな!」もう1人の男が怒声に近い声で言う

「浮気されたのなら、それはあなたに問題があるということなの。あなたの包容力が・・」

実に女性らしい女性目線だけのとんでもない理屈を並べる

「お前は俺によく似ているんだよ、愛情に対して希薄なところが」

「・・・。」

責められている男は無言でただ黙って聞いていた

「お前は惰性で生きているんだ、もう少し自分を見つめ直した方が良い」

そう告げたあたりで電車の扉が開き、2人に挨拶も無しに女は降車した。

僕も同じ駅だったのでその話を又聞きに電車を降りた。

 

 

 

何があったのかは知らない。ただ責められている男に問題があると2人は言っていた。だが僕は男の気持ちが少し分かる気がした。その男の事は一切知らないし、事情も分からないけど。僕とその男は似ている気がした。ただ違うのは男には怒ってくれる友人がいて、僕には居ないという事だけだ。だから男が言っていた「お前は惰性で生きているんだ」というのがひどく引っ掛かった。そうか、僕は惰性で生きているのかもしれないと思った。目標を掲げて努力を積み上げていた時は情熱と希望を胸に秘めて毎日を忙しなく過ごしていたが、ここ最近というもののただ何となく生きているに過ぎなかった。まさに「惰性」で生きている、その言葉の通りであった。

 

僕に言われたわけでは無いが僕に対して言われた気がして、どうしてもその男のセリフが頭にこびり付いて離れなかった。「お前は惰性で生きているんだ、もう少し自分を見つめ直した方が良い」言われてハッとした。ただこれといって大きな目標も無く、生活するためだけに仕事をして、それなりの給料の中からそれなりに貯金して、楽しい何かがあるわけでも無く、ストレスになってしまう程の嫌な事もあるわけでも無く、何も無い日々を何も無い僕自身が目標も無くただ生きているだけであった。それでも、このままではいけない事ぐらいは理解はしている。ただ何をどうすれば今の状況が好転するのかが分からないだけなのだ。

 

今年は新しい事に挑戦していこうと年初に決めた。何をすれば良いのか分からないけれど、とりあえずは何かをしなければならないと思ったからだ。だから新しい事をすれば何かが変わるかもしれない、そんな特段大きな理由も無く何となくで決めた。そんなわけで今まで避けて通ってきた、新しい環境に身を置く事に決めた。職場には何人かの有志が集まり、サークルみたいな活動をしている団体がいくつかある。その中の一つに混ざる事に決め、最近その交流会とやらに何度か参加している。そして何度か接している内に人となりが分かり、仲良くなっていったのだが、今まで自分の中の引き出しには無かったような性格の人たちを接する事となる。端的に言うと「わがまま」というだけであるのだが、僕にとってそれは驚愕な事ではあった。大人なのに「わがまま」を言うのがにわかに信じ難いというか、あまり意味を成さないというか。大人になるという事はある程度の事は「我慢」するのが普通だと思っていたから、そんな「わがまま放題」でまかり通るわけは無い。ただそのサークルのメンバーは自分の中のやりたい事、思っている事、主義・主張が見事にハッキリしていて、良く言えば個性的とは言える。自分のしたい事が無いという事実は思っている以上に辛いもので、恐らくこれを一般的な言い方に変えるなら「無気力症候群」というのかもしれない。何かをやるにもやる気は出なくて、面倒だと思ってしまう。ただモチベーションが低くとも、それなりの成果は挙げられる。要するに正しい方法を知っていれば上手くいくというだけだ。だがノルマ以上のことはやろうとはしない。仕事ならそれで成立しているので然程問題は無いが、生きていくにあたって、もっと簡単に言うと、プライベート自体に興味が持てないというのは実は致命的では無いか。頭では理解していても、気持ちはそれに追い付いていない。抱えている問題は思ったより根が深いと書きながら今思った。だからこそ、外部の刺激というのは意味があるだろうと踏んでいる。そのサークルにいるメンバーの「わがまま放題」な人たちと同じ時間を共有することで僕にも少なからず何らかの影響を貰えて、自分の中に「自主的な行動」が芽生えていくのでは無いかと・・・。きっと僕は、自分自身の中にある、今まで見て見ぬ振りをしてきた憧れに期待しているんだろう。

無駄遣いするなんて馬鹿野郎のする事です

世間一般は給料日というのは楽しみにしているイベントの一つだろうが、僕にとってはそんなに特別な日では無い普通の日だ。


月の半ばになると給料が指定口座へ振り込まれる仕組みになっているのだが、給料日になると同僚たちは喜ぶ姿をしばしば見る事がある。僕にとってはそんな喜べる事でも無いというか、働いた対価が支払われるだけで特別な感情を抱くほどでも無い。まあ喜んでいる連中はお金の使い道というのがあるから楽しみにしていたのだとは思うが、僕にはそのお金を使うという事がほとんど無い。何か買うわけでも、お酒を飲み行くわけでも無く、どこかに旅行に行くわけでも無い、そもそも使う事を想定していないので、新しく振り込まれる給料を当てにしていないのだ。だから銀行口座には必要最低限の出費以外のお金は預金に回され、使うことが無く貯まっていくだけである。

 

そもそもお金を使い過ぎるというのがよく分からない。お金というのは生きる為に必要なもので、それがあって食事も寝床も服を着る事も出来る。衣食住の基本はお金があって成立する。それなのにお金を全て使い切るという発想がそもそも出て来ない。お金は即ち生命力と同じで「お金=命」と言い換えても良いくらいである。浪費家というのはある意味で「命を削って物を得ている」と言っても過言では無い。お金の使い道が命より大事だと言う者も出てくるだろうが、それならば安らかに眠れと声を掛けてあげたい。よくお金が足りなくなったので金融会社へお金を借りる人もいるが、僕から言わせると正気の沙汰とは思えない。お金を借りるとは利息が付くので借りた時より返す時の方が多くなる、多くなるということは無駄に払っているということで、何も得ていないのに何故かお金を払う羽目になっている。意味が分からない。僕がその手の話に精通していないので、もしかしたらはじめは利息が不要な所もあるのかもしれないがそれでも一定期間経つと利息は発生するだろうし、そもそも無意味なリスクは負うべきでは無い。稼げている範囲でお金を使う事を考える方がよっぽど健全だ。

 

これは、僕が友達が居ないのでお金を使う事が無いっていう事を暗に示した強がりでは無い。完全勝利ここにあり。

昨日までの当たり前が、当たり前ではない今日になった時

「現状維持では後退するばかりである」


僕はこの言葉が好きだ。常に上昇志向で向上心を持って日々を過ごさなくては成長しない、という意味だ。この言葉を聞いた事がある人はウォルトディズニーを思い浮かべるだろうが、もともとはゲーテの言葉である。

日々頑張ることは大事であるが、なぜ頑張るのか顧みた事はあるだろうか。その頑張りは現状維持の為になっていないだろうか。きちんと先の未来を見据えての行動になっているのか。

 

そんな自問自答をして急に耳が痛くなった気がした。そういえば僕は何で頑張っているんだろうとふと思った。若い頃は負けん気だけで頑張れてはいたけど、30の半ばになろうとしている今ではそれだけでは前には進めない。頑張るにも理由がいるのだ。我ながら面倒くさい性格をしているものだと思う。

さて僕は何の為に頑張るのか。頑張るって事は何かを大事にする事と同義だ。僕は何の為に頑張ろうとしているのか、それが分からなくなって来ている。誰かを大事にして来たわけでも、かと言って自分を大事にして来たわけでも無く、ただただ目の前の目標を遂行すべき全力を費やしてきた結果、大事な物が何も無いまま、ただ歳だけを重ねてきてしまった。頑張るって事はある種「居場所の確立」って事で、どこにも居場所が無い僕には、頑張る資格が無いって言われてる様な気がした。

 

居場所っていうのは誰かに認められて初めて効果を表わすものだ。だから何万人に認められていなくても、たった一人大切な人にさえ認められていれば、そこがその人の居場所って事になる。僕には本当に居場所が無いのか、それとも僕が気付いていないだけなのか。

以前までの僕は僕自身が僕を認めていたから、それで成立していたのだと思う。小さい男だと思われるかもしれないが、認めていたという事実は変わらないし、認めていたという事実が自体が大事なので些細な問題には目を瞑るとして、今の僕は僕自身を認めていない事が今回の問題の引き金になっている。昨年の秋頃、失敗を犯し自分自身を信じられなくなったのがそもそもの原因だ。よく信頼を取り戻すのは容易では無いと聞くが、それが自分自身の信頼を取り戻せないとは難儀なこった。つまるところ成功体験を積み重ねて再び自分自身を信じられる様になれば良いというのが結論ではあるが、ではそれをどうやって実現すれば良いのかそれが分からないから、ますます迷宮入りというわけだ。自分に試練を与えて、それを乗り越えられれば万事解決へ向かうだろうが果たしてそれを頑張れる自分がそこにいるのか。一度不安になるとなかなか抜け出せないのも人である。ただ唯一の救いは、現状のままではいけないという事を僕自身が知っている事ということだ。何をまあ頑張る頑張らないなどという事でここまで書けるなと自分自身でも思うが、若い頃にあった勢いだったり、希望だったり、フレッシュな気持ちが原動力の一つになっていたが、無駄に歳を取って色んな事をある程度正しく判断できる今。やんちゃだけで頑張れる歳では無くなっていたということだ。頑張る理由、即ち自分の居場所というのを探すことが前に進める方法なのだと思った。

かんたんな事だったんだ、見上げればそこには空があるって事を忘れていた。

「あなたは文字の人だ」そう言われた事がある。もう何年も前の事だ、それも僕にとってはあまり気持ちの良い思い出では無く、出来る事なら思い出したくない過去に一つ。

 

僕はいつかの顔を持っている、その一つに役者としての顔がある。正しくは役者だったと言うべきなのかもしれない。その数年前に役者として活動していた時の事、芝居の稽古の時だったか、それが終わってからだったか、その辺りは曖昧だが、芝居を演出する側の人に言われた言葉だ。「あなたは文字の人だ。頭の中には文字が沢山あって、その文字を言葉としてあなたは発している。文字がどんどん溢れてくるタイプの人なんだね。」確かそんな事を言われた記憶がある。確かにそれは一理あると言えばその通りなのだが。実際のところはよく分かってはいない。読書は好きだし良く本を読む、最近は以前ほど読む時間が取れていないが、以前は司書官になろうと思ったぐらい本が好きだった。本を読む事が1日の大半の時間を占めて、本が読みたくて大学を休む事もあるぐらい本に夢中だった時期もあった。それが最近、本を読む習慣というものがトンと減ってしまった。別に本が嫌いになったわけでも、活字が苦手というわけでもない。本を持ち歩く事が減ってしまって、自然と本から遠ざかっていく日々が多くなったためだ。最近、本を読む機会が減ったなと思って、電車の中などを見渡すと電車の中の乗客は本を読む人より圧倒的にスマホを弄っている人が多数を占める。その中の一員に僕もなってしまった、ただそれだけだった。

 

昨年は僕にとってあまり良い年であったとは思えない。新しい事に挑戦して、新しい環境で、一から学び直し、決意を新たに奮起していたのだが、その途中大きな失敗をしてしまい、そこから不調な日々が多くなってきた。以前の僕は失敗に対して寛容であり、その失敗から学ぶところ、今後に活かすところ、マイナスをマイナスだけで無くプラスへと変換出来る何かを血眼になって探し当てる、そんな人物だったのだが。その大きな失敗以降そう思えなくなっていた。

 

本好きは本をあまり読まなくなっても本質は変わる事が無くて、買う気が無くても本屋に何となく立ち寄ってしまう。先日ふと時間潰し程度に本屋に寄った際に気付いた事がある。僕は本を読まなくなっていたという事に。失敗したマイナスをプラスへ変換していけるところは僕の長所の一つだと思っていたが、それが出来なくなってしまっていた理由の一つに本を読まなくなっていたからだと気付いたのだ。別に本の中に答えがあるとか、そんな単純な事でも無いのだけれど、本を読むというのはある種の自分との対話なのだ。本を読んで自分自身の過去の経験とが混ざり合って新しい何かになる。それが読書の良いところだ。その本というのが別に実用書とかで無くても良くて、小説でもエッセイでも雑誌でも何でも良い。活字として文章になって書かれているものであれば、そのジャンルはあまり拘らない。大事なのは著者が居て、その著者が自分の意見を文字で表現していること、そしてそれを読んで、吸収して自分の身体に取り入れて、理解すること、それが大事だってことを長らくの間忘れていた。今年はもっと本を読んでいこうと思う。

 

どうやら僕は「文字の人」で間違いないらしい。

光り輝く楽園の一端を少し見れた気がして幸せな心持ちになった、とある日のこと。

数日前のことだ。

 

今年は初詣に行こうと前々から決めていた。本当ならば元旦に行く筈であったが、前日の大晦日で夜中まで起きていたせいか、元旦は寝正月から始まった。昼過ぎに起きてしまった手前、その時間から行くのは難しいであろうと元旦に行くのを諦め、翌日2日に初詣へ出向いた。

 

今まで初詣というものをした事が無い僕は初めての初詣をそれなりに楽しんだが、今回の話はその帰り道の事。電車に乗って東京駅経由で最寄り駅まで帰る途中のことだった。僕はその日は珍しく朝早くから起きていたので帰りの電車の中は眠気のとの死闘を繰り広げる事になったのだが、僕から見て右手斜め向かい側の席に、肩ぐらいまである黒髪の、どちらかというと活発的な雰囲気を匂わせる女の子が座っていた。服装は比較的ラフでタイトなミニスカートを履いていた、足をピッタリくっ付けていなかったので、スカートの中が角度によっては見えるのでは無いかと淡い期待をしつつ、良い方法は無いものかと寝惚けた頭で考えてはみたが、気付くと睡魔に負けて寝ていたらしく、あまり詳しく覚えていない。

目が覚め気付くと何駅か進んでおり、まだ最寄り駅には遠いが寝るほど時間が掛かる距離でも無いぐらいの中途半端な時だった。眠る前に右手斜め前にいた筈の女の子はその席にはもう居なく、途中下車したのかと一人思っていたのだが、その席の手前側、吊り革を持って立っている女性に気付いた。その女性、いや女の子はさっきまでその席に座っていた女の子だった。気持ち悪いのは百も承知で、その時自分でもこれは一種のストーキングでは無いかと思ったぐらいだった。ただ気になったのは何故座っていたのに今は立っているのか、そこに疑問を感じたのだがそれはすぐに理解出来た。その席にはその女の子より少し年齢が上の女性が座っていた、ゆったりした服装から、恐らく妊娠しているのであろう。妊娠している女性はマタニティマークと呼ばれるストラップをカバンなどによく付けているのを目にするが、僕の位置からではそのストラップは見つけられなかった。ただ状況からして恐らく、その女性は妊婦であると理解は出来た。

 

僕は個人的に決めているルールがあって、どのいかなる状況でも自分が席に座っていて目の前に老人が来た際は席を譲るという取り決めがある。罰せられるわけでも無いし、譲らなくても何か失うわけでも無いのだが、それは自分が自分であるために守ろうといつの日か決めたルールだ。それは相手が老人で無くても、妊婦でも同じでマタニティマークを見た時には席を譲っている。幼い子供連れの親子や怪我している人なども同様である。

その女の子もきっと僕と同じ理由で席を譲ったのだろう。対して僕はその子のスカートの中にある楽園を見たいが一心の下心丸出しの考えに少し恥じつつ、そんなやさしい世界がこれからも続くと淡い期待に胸躍らせた、とある日の夕暮れのことだった。